Translate

2014年2月21日金曜日

源氏物語の食文化

 源氏物語に出てくる食品数は、およそ100強。この数字は衣食住の記述の中でも極端に少ない。衣とくらべて三分の一にもみたない。この事は、平安貴族社会において「食」が軽んじられていたであろうという推論の根拠とされている。確かに当時の宮廷料理は、その料理人を「包丁」と称したように、切る、干物にするといった事が主な調理方法であり、食事の時々に各々が塩、酢などで味付けして食味に関してあれこれ言うのはよしとしなかった。




 食の視点で源氏物語を読むとき興味深い食品がある。それは、菓子である。菓子は、日常の食生活に必要とされているものではなく、神饌や、贈答に使われることなどから、神と人、人と人を結びつけるコミュニケーションツールであるといえよう。いささか前置きが長くなったがこういった視点から源氏物語をみてみよう。



源氏物語「葵の巻」に「その夜さり、亥の子餅参らせたり」とある。「亥の子餅」とは現在11月に使われる。茶道における炉開きの定番の菓子でその秋収穫されたばかりの大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖の七種を混ぜ搗きあげたものである。平安時代、陰暦10月の最初の亥の日に「亥の子餅」を食べると瓜坊に例え多産子孫繁栄すると考えられていた。「葵の巻」のこのシーンにおける「亥の子餅」は、「三日夜の餅」の代用として使われている。「三日夜の餅」というのは、平安時代の婚礼儀式のなかで重要なものである。往事は、男性が女性の家を訪ねる妻問い婚のかたちであるから一夜の通いでは、正式な婚儀とは考えられない。三日夜の翌朝、銀盤にのせた三日夜の餅を噛み切らずに食べ、新婦側の家が用意した衣装に着替え「露顕(ところあらわし)」という披露宴にのぞみ初めて婿、舅の出会いとなり結婚が成立する。
「亥の子餅」が供せられるのを見た源氏は 腹心の惟光に命じる。
「この餅、かう数々にところせきさまにはあらで、明日の暮れに参らせよ。今日はいまいましき日なりけり」(明日の夕方、こんなに沢山にせず、紫の上にさしあげよ 今日は日がよくない)
紫の上と新枕を交わしたことが照れくさく、はっきりと「三日夜の餅」と言えずに「亥の子餅」を召す十月初亥の日の翌日が、源氏と紫の上の新枕からの三日目と重なったので、照れ隠しに「三日夜の餅」を「亥の子餅」に置き換えた。源氏の意を組んだ惟光は、かように答える。
「げに、愛敬のはじめは日選りして聞こしめすべきことにこそ。さても子の子はいくつか仕うまつらすべうはべらむ」(愛敬のはじめとは新婚の意味)
「亥の日」の次の日は、「子の日」新婚三日目の「子の子餅」と優しさのこもった洒落で答えた惟光の答えは、心温まる素敵な場面である。きっとその場に居合わせた「二条院」の女官達も微笑んだ事であろう。現在でも、贈答として使われる菓子。そのコミュニテイケアの力を感じさせてくれるヒトコマであろうか。
(太田達)

0 件のコメント:

コメントを投稿