Translate

2014年2月21日金曜日

「平沙に子を産みて落雁の儚や親は隠すと-善知鳥 -」

 落雁は、糯米を炒って粉末とし、砂糖を加え木型で押した菓子である。寺院の供物、神社の祭礼の御神餞、またその撤餞(おさがり)として使われてきた。
茶席において濃茶のための主菓子は、床の軸を受け、また客にあわせて一席ごとに作られる。抽象的な意匠により、主客の精神的な交感をもたらす。落雁はこの濃茶のあとに出される薄茶のための菓子である。干菓子盆上の主役となる落雁は、有平糖(ありへいとう)、洲浜(すはま)、煎餅などと組み合わせて季節を表現する。薄茶は、茶席という非日常空間から日常に客を戻す役割をもち、そのため干菓子は具象的で簡単なものがよい。その代表が、型押ししてつくる落雁である。



 落雁の起源は、もともとは、遣唐使が持ち帰った粉熟(ふずく)であった。これは『源氏物語』にも登場する、蒸した糯米に甘葛煎(あまづら)や蜂蜜、胡麻などを合わせて搗き込み、竹筒に入れた後、輪切りにして干したものである。室町時代になると、本願寺五世綽如(しゃくにょ)が北陸巡錫(じゅんしゃく)の際にこの菓子を出され、その姿が雪の上に雁が落ちる様子に似ていることから落雁と名づけたといわれている。北陸は落雁の材料寒梅粉の産地でもあり、綽如にとっても重要な地であった。また、本願寺中興八世蓮如が石山寺で瀬田辺りに雁が落ちていくのを見て、たまたまその翌日出された菓子を落雁としたともいわれる。足利義満、義教により蒐集された御物唐絵の中に牧谿(もっけい)の『蕭々(しゅうしょう)八景図』があり、その中の『平沙(へいさ)落雁』から近江八景の『堅田(かたた)落雁』が生まれた。角形の落雁の中に押し込まれた黒ごまを落ちゆく雁に見立てたものであろう。本願寺にとって、山門延暦寺と、寺門三井寺の緩衝エリアである堅田の地はとても重要な地であった。
寛正六年(1465)比叡山延暦寺による本願寺破却の真宗仏難の時、金森(守山)、堅田、大津等を転々とした。この時代、義満、義教によってコレクションされた御物唐絵の中に牧谿の『蕭々八景図』があり、その中の『平沙落雁』から近江八景の『堅田落雁』が生まれた。角形の落雁の中に押し込まれた黒ごまを落雁に見立てたものであろう。蓮如は、法談の最中眠くなった門徒達に世阿弥作の『誓願寺』を弟子に謡わせたといわれている、現代でも宗祖親鸞の祥月命日である報恩講には、浄土真宗の各寺において多くの落雁が盛り上げられている。本願寺の宗勢拡張における演能と落雁の関係は興味深いものがある。蓮如は、法談の最中眠くなった門徒達のために『誓願寺』を弟子に謡わせたといわれている。現代でも宗祖親鸞の祥月命日である報恩講には、浄土真宗の各寺において多くの落雁が盛り上げられている。本願寺の宗勢拡張における演能と落雁の関係は興味深いものがある。


人の歴史のなかで火を知る以前の炭水化物の摂取方法として、粢(しとぎ)がある。水に浸した生米を搗(つ)き砕いて種々の形に固めたもので、神餞などに用いられた。一九七〇年頃まで日本列島どこの祭礼でも見ることができたが、現在、秋田県の一部と中央アルプスの山村等にしか残らない。韓国における生粉に色をつけ重ねた後に蒸す儀礼菓子ペクソルギや、粳米(うるちまい)の生粉を基とする白雪糕(はくせんこう)の過程をへて、先に火をいれた粉を使う「落雁」が完成したと考えられる。


医療が未発達の時代、子供の命を護る地蔵盆の主目的は、紅白の落雁を配り夏の終わりに体力を消耗した子供達に栄養を補給することにある。「落雁」という言葉の初見とも言われる『善知鳥』の親の子を思う気持ちこそ「落雁」という菓子の本意であろうか。
(「観世」第八〇巻五号、20135月)
(太田達)

0 件のコメント:

コメントを投稿