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2014年3月1日土曜日

ブッダガヤ茶会記

 それは、とてつもなく長い露地渡り(※註1)となった。
 2006年2月12日午後1時。関空発エアインディア香港経由に搭乗。香港まで約4時間。そして、1時間半ばかり駐機時間。なんと、エアインディアは、機外へ出してもらえない。中国人の掃除のおばさんがいっぱい入ってくる。何処に、身を置けばよいのか・・・。



 それにしても、ボロボロの機体である。座席前のテーブルの留め具がこわれている。着陸のショックで緊急酸素マスクが勝手に降りてくる。ロイヤルネパールエアーのほうがずっと上等。この機は、10年前のモンゴルエアー並みか。と思っているうちに夕食。またカレーである。
 そして、多分、パリに着くほどの時間をかけ、ニューデリーに着いた。本来の席入り(※註2)で言うなら、やっと腰掛け待合い(※註3)か。乗り継ぎ便の都合でデリーに2泊。そして、国内便のサハラエアーに乗り、パトナというインド中部のアショカ王ゆかりの町に着く。
 ここからがスゴイ。ガタゴト道、熱と砂ぼこりの平原が続く。数ヶ月前、山賊が出たとかで、バスの前後に軍のジープがつく。バスの天井に頭をぶつけ続けること4時間、車は尼連禅河(ブッダガヤにある河で、この河を渡った後、釈迦は悟りをひらく)を越えた。これは蹲踞(※註4)か。そして、ガヤの街に入る。喧噪と、人、牛、人、犬、人、山羊。警護の兵隊たちが、銃で威嚇して道をあける。この街はにじり躙り口(※註5)なのか。躙り戸(※註6)を開けると、バスはブッダガヤの静寂に入った。

 茶室は、その樹の下にあった。
 今回の場合、茶の呈される場を茶室と解釈する。
 その樹とは、一本の菩提樹。釈尊がその下で瞑想し、悟りを開いた樹である。
 マハボディ寺院・大塔(52m)の丑寅の片隅の木陰。30畳ほどのスクエアである。点前座(※註7)は菩提樹の真下、金剛宝座(※註8)に平行する。献茶式(※註9)である。裏千家(※註10)十六世坐忘斎家元が、台子(※註11)に臨まれた。
 マハボディの管長以下、十数名の僧侶の読経の中、作法どおり、2碗が点てられてゆく。天目台(※註12)にのった茶碗は家元の手により、金剛宝座に供えられた。その間、およそ30分ほどであった。不思議な時間であった。

 実は、1時間ほど前からその場を確保することが私の仕事であった。大塔のまわりは世界各地――ネパール、ブータン、チベット、タイ、中国、台湾、日本、韓国、ヴェトナム、ミャンマー、スリランカなど――の仏教国から熱心なブッディストが詣りに来ている。献茶式の始まる数分前まで、点前座のただ中を、赤や黄の僧服のラマ僧が、しゃくとり虫のごとく、五体投地して横切ってゆく。蚊だらけである。インドの蚊取線香が焚かれる。こんなところで殺生してもよいのかな・・・。
 心配はご無用。この蚊取線香は効かない。まわりからは、各国語の読経が何度も波のように押し寄せてくる。
 アジアの雑踏はすばらしい。その中での瞑想。――茶の時間である。
 唐突ではあるが、最後に、100年前にこの場に座った岡倉天心の『東洋の覚醒』の一文をもって、この茶会記を終えたい。

  

西洋はしばしば東洋には自由が欠けているといって非難した。たしか   に、われわれには、互いの主張によって身を守るあの粗野な個人の権利という想念あの不断に人を押しのけて進むような、(中略)粗野な権利の想念はないのだが、それは西欧の栄光であるらしい。われわれの自由の概念は、それより遥かに高いものである。われわれにとって自由とは、個 人の内面的な理想を完成する力にある。

 茶の根底にあるアジアの思想。人に優しく、人のため・・・

                                 
(※註1)露地渡り<ろじわたり>・・・茶室に伴う庭のことを「露地(ろじ)」という。利休は精神面を強調し、露地の境涯を仏界にたとえた。茶室に入るには、露地に入り、歩をすすめながら世俗のほこりを清め捨てるといわれている。
(※註2)席入り<せきいり>・・・茶事・茶会に招かれた客が茶席に入ることをいう。
(※註3)腰掛け待合い<こしかけまちあい>・・・露地にある腰掛け。
席入りの前に、亭主と挨拶をかわすため、ここに腰をかけて待つ。
(※註4)蹲踞・・・露地にある手水鉢で、茶席に入る前にここで手と口を清める。
(※註5)躙り口<にじりぐち>・・・茶室特有の小さな出入口。
(※註6)躙り戸<にじりど>・・・躙り口の板戸。
(※註7)点前座<てまえざ>・・・茶を点てるために座る場所。
(※註8)金剛宝座<こんごうほうざ>・・・釈迦が悟りを開かれた場所とされ、石の台座がある。ブッダガヤの聖域の中でも特別な場所とみなされている。
(※註9)献茶式<けんちゃしき>・・・神前、または貴人にお茶を献ずることを献茶という。献茶式は、家元が多くの人々の前で点前姿を披露するものであり、明治13年(1880)に北野天満宮で始められた。
(※註10)裏千家<うらせんけ>・・・千利休を祖とする三千家の一つ。利休の孫の宗旦の末子仙叟宗室から続く流派。
(※註11)台子<だいす>・・・座敷における点茶棚。元来、中国禅院で使用されていたもので、現在は格式の重い時に用いられる。
(※註12)天目台<てんもくだい>・・・天目と呼ばれる茶碗(中国浙江省から鎌倉時代に禅僧がもたらした)をのせる台。貴人に茶を供する時に多く用いる。


参考文献)『茶道用語辞典』(淡交社)

(太田達)
(2006年3月15日、4月1日初出)

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